2026-05-03

最適化より、安全な回廊を走ること

山の頂点を目指すゲームから、谷に落ちないゲームへ。社会設計の発想をどう転換するか。

登山家は頂上を目指す。そのために最短ルートを計算し、天候を読み、体力を配分する。

政策立案者も長らく、同じように考えてきた。「最適な状態」という頂点を設定し、そこへ向かう最短ルートを設計する。GDPを最大化する。失業率を最小化する。幸福度を最大化する。

しかし、登山と社会設計には決定的な違いがある。

登山では、頂上の場所が分かっている。社会設計では、頂上がどこにあるかが分からない。


「最適点」という幻想

経済学の教科書には「社会厚生関数」という概念が出てくる。社会全体の善さを一つの関数で表し、それを最大化する政策を見つける、という発想だ。

美しい理論だ。しかし実際に使おうとすると、すぐに問題にぶつかる。

「社会全体の善さ」を一つの関数で表すには、健康・自由・格差・環境・信頼・文化・安全……これらすべてをどう重み付けするかを決めなければならない。誰がその重みを決めるのか。どんな根拠で決めるのか。

そして仮に重みを決めたとしても、その関数を最大化する政策がどんな副作用を持つかは、完全には分からない。因果が複雑すぎる。変数が多すぎる。時間軸が長すぎる。

「最適点」は、しばしば幻想だ。


頂点を当てるゲームの失敗例

この「最適化」発想が生み出してきた失敗のパターンがある。

一つのスカラー指標を最大化しようとした結果、他の軸が犠牲になる。GDP成長率を最大化する政策が格差を拡大させる。インフレ率を最小化する政策が雇用を犠牲にする。治安指標を改善しようとした政策が自由を損なう。

「山の頂点」を目指して登り続けた結果、気づいたら別の山の崖っぷちに立っていた、という構造だ。

しかも厄介なのは、崖っぷちに気づいたときには、すでに引き返しにくい状況になっていることが多いという点だ。バブルが最大化した時点で崩壊が始まる。格差が臨界点を超えてから社会不安が顕在化する。財政が限界を超えてから危機が来る。

取り返しのつかない点を、速度を落とさずに通過してしまう。


ゲームを変える——谷に落ちないゲームへ

発想を転換するとすれば、こうなる。

頂点を当てようとするのをやめる。代わりに、危険な谷に落ちないことを目標にする。

これは後ろ向きな発想ではない。因果が不透明な現実への、誠実な応答だ。

頂点がどこにあるかは分からない。しかし「この方向に進み続けると崖から落ちる」という判断は、完全な因果モデルがなくても可能だ。方向だけを見る。「上か下か」ではなく「危険な方向か、そうでないか」を判断する。

これをDirectional Delta Control(DDC:方向付きΔ制御)という。

最適値を探すのではなく、方向とレンジだけを制御する。「金利を何%にすれば最適か」ではなく、「今、上げる方向に動くべきか下げる方向か、どちらに動くと明らかに危険か」だけを問う。


「安全な回廊」という概念

DDCが目指すのは、社会を「安全な回廊」の中に保ち続けることだ。

回廊とは、両側に壁がある通路だ。壁の外に出ると危険。壁の内側にいる限り、多少の揺れは許容できる。頂点を目指すのではなく、回廊の中を進み続けることが目標だ。

この回廊の設計には、三つの要素がある。

方向の判定。 各指標の直近の変化を見て、「明らかに有害な方向に向かっているか」「望ましい方向だが限界に近いか」「よく分からないか」を分類する。

禁止方向の設定。 「これ以上悪化させてはいけない」領域に入ったら、その方向への動きを全面禁止する。

変化の上限(CAP)。 一度の動きを、安全上限の範囲内に抑える。完全な因果モデルがなくても、「一度にこれ以上動かさない」という制限は設計できる。


完全な因果モデルは必要ない

DDCの重要な特性は、完全な因果モデルを必要としないという点だ。

従来の最適化アプローチは、「この政策を実施するとこういう結果になる」という因果モデルを必要とする。そのモデルが間違っていれば、最適化した結果が最悪の結果になる。

DDCは違う。「どうすれば最適か」が分からなくても、「この方向に進んではいけない」という判断だけで、かなりの安全制御ができる。

ヒュームが示したように、因果の完全な理解は不可能だ。しかし方向の判断は、完全な理解がなくてもできる。暗闇の中でも、崖の縁は感じ取れる。


倫理の問い直し

この発想の転換は、政策倫理の問い直しでもある。

従来の政策倫理は「最善の結果を実現すること」を義務とした。最善が何かを定義し、そこに向かって全力で進む。

DDCと段階復元の設計が示す倫理はこうだ。制度のコア義務は「ベストの結果を保証すること」ではなく、「因果が見えない状況で無謀な軌道を避けること」だ。

少し遅い改善であっても、取り返しのつかない崩壊リスクを大きく減らせるなら、そちらの方が倫理的に望ましい。完全に理解していない因果物語に「全賭け」することを避けるために止まることは、慎み深い選択として倫理的に正当化される。

そして将来世代が自分たちの価値観で選び直せる状態を残しておくこと——これは手続きの問題ではなく、倫理的な義務に近い。


「正しい道」から「壊れにくい道」へ

登山家が頂上を目指すのは、頂上がどこにあるか分かっているからだ。

社会の設計者には、その確信がない。頂上がどこにあるかも、今自分がどこにいるかも、次の一歩が正しい方向かどうかも、完全には分からない。

そういう状況での誠実な態度は、「正しい道を全速力で進む」ことではない。「壊れにくいステップを積み重ねながら、随時確認しながら進む」ことだ。

山の頂点を当てるゲームをやめて、谷に落ちないゲームをする。最適化より、安全な回廊を走ること。

これが、因果の不透明な世界で制度設計者が取れる、最も誠実な姿勢だと思う。


ノンスカラー民主主義シリーズ。前回:なぜ社会保障は「止まれない」のか

C3社会デザインセンター:www.c3-anchor.jp